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半日ずっと書きものしてた

20時ぐらいからだらだらしていて寝たり起きたりしていた。9時に起きた。バテてたからちょうど休養になった。

散髪

年末に行こうと思っていたのが葬儀で予定が狂ってしまってその後も会社の事務手続きや社用車の購入にバタバタして出張があって今日行ってこれた。いつも散髪に行って思うことはもっと早く行けばよかったということ。散髪を終えた後の髪の鬱陶しさから解放されて楽に感じる。もう一定の髪量になったら私のカレンダーの空いている時間帯を見繕って自動的に散髪屋さんに予約をとってほしいとすら思える。カメラとカレンダーを組み合わせてそういったワークフローを作ること自体はできるかもしれない。

日記

出張していたときの日記をまとめて推敲してアップロードした。なんか出張すると、夜はお出かけして遊んでたり、ホテルに戻ってからもだらだらして日記を書かないことが多い。原因の1つにホテルの部屋の椅子がオフィスにあるものと比べてよくない。疲れて帰ってきて、オフィスよりも椅子の悪いところで日記を書く気になれないというのがある。アーロンチェアに慣れてしまってこの椅子で書きものをするのが快適過ぎて、他の環境で書くのをためらってしまう自分がいる。アーロンチェアは半日以上書きものしていても全然疲れない。

フリーランス、40歳の壁

早いうちの方が覚えているからよいだろうとエイヤで書いてみた。読み終えた後にあまり思い入れもなかったので書評も簡潔なものとなった。まぁまぁの手応え。

ストレッチと読書会で体力を使い果たした

23時に寝て3時と5時に起きつつ7時に起きた。21時半には出張から家に戻ってきて天気がよかったらオフィスへ行ってたんだけど、雨降りだったのでそのまま寝てた。今日もストレッチを終えてから読書会に参加したらその後は眠くなってしまって家に帰って寝ていた。ストレッチと読書会しかやっていないのに一日の体力を使い果たした状態になるぐらいの疲労が蓄積している。

ストレッチ

今日の開脚幅は開始前155cmで、ストレッチ後159cmだった。数字の上では先週と大差ないのだけど、疲労の蓄積で右腰と右股関節周りが大変なことになっている。久しぶりにストレッチを受けていて辛くて耐えきれないところの一歩手前まで到達していた。ふくらはぎとか限界に近かったが、なんとか耐えきった。出張前に懸念していたことでもあったけれど、結果として、出張前のストレッチで復調しつつあった体調は悪化したと言わざるを得ない。たくさん歩いたことや慣れないホテル暮らしで腰と右足に負担がかかってしまった。

オンライン読書会

先月はオフィスの引っ越しで不参加だったため、1ヶ月飛ばしで 第6回『Go言語による分散サービス』オンライン読書会 に参加した。本書の読書会は今日で最後の読書会で次の2章を読んだ。

  • 10章 Kubernetes でローカルにアプリケーションをデプロイ
  • 11章 アプリケーションを Kubernetes でクラウドにデプロイ

10章では kind というローカル k8s クラスターを構築するツールを使って go アプリケーションをデプロイする。データベースのようなデータを永続化するようなサービスのためのリソース種別に StatefulSets がある。私は使ったことがないリソース種別だったのでキーワードを知ることができてよかった。jsonnet というデータテンプレート言語というツールも出てきて、なんだこれは?と思ってびっくりした。これも初見だし、使っている話しも聞いたことなかった。本書でも k8s については書籍を一冊書いても足りないと説明されていて、アプリケーションのデプロイに必要な k8s マニフェストの説明を10章だけでやって、ほとんどの読者は置いてけぼりだと思う。k8s の運用経験のある私が読んでも yaml の正当性なんて動かしてみないとわからないし、k8s はバージョンアップが速いのですぐに陳腐化する可能性もある。helm のパッケージングなどにも触れていてキーワードを知るという意味ではよかったと思う。この2つの章は k8s へのデプロイはこんな感じですよという雰囲気を味わってもらうお気持ち程度の内容だと思う。

15時頃には読み終えて、それから8人ぐらいで雑談していた。私は書籍の組版を自分でやったことはないのだけど、しばたさんは出版社によっては自分で組版までやって pdf で納品しているらしい。現行は tex で管理しているようにみえる。余白の調整や索引作るのも自分でやっているらしい。ある本は後になってから出版社の規定している余白よりも広過ぎてページ数が増えたことに気付いて、その後の本で余白を調整したりしたとのこと。本来はそういうお仕事は編集者のお仕事ではある。とくに索引は数ページになったりするので大変といった話しをされていた。effective java 第3版だと索引だけで9ページある。

フリーランスの壁は普通の人にとってはあまり高くない

1時に寝て7時に起きた。夜遅くに晩ご飯を食べて気付いたら寝てた。

ストレッチ

今日の開脚幅は開始前154cmで、ストレッチ後160cmだった。年末の葬儀で不摂生、且つ身体に負担のかかる状態で3日間を過ごし、その影響で腰や右足周りに負荷がかかっていた。それは正月明けからもあまり予後がよくないなと思いながら過ごしていた。年末はストレッチを1回休みで2週間ぶりに行った。懸念しているところはトレーナーさんからみてもあまりよくないということでいつも通りストレッチで伸ばしてもらって少し楽になった。一方で正月明けはあちこちお出かけして平時よりも歩く機会が多かったので運動量は多く健康的な生活を送っていた側面もある。悪いことばかりでもない。来週は東京出張が控えていて体調がよくなるか悪くなるか、まだなんとも言えない見通しではある。

フリーランス、40歳の壁

フリーランス、40歳の壁 の前半を読んだ。

  • 「第1章 自由業者フリーランス・40歳の壁。」
  • 「第2章 とみさわ昭仁 「好き」を貫く代償。」
  • 「第3章 杉森昌武 フリーランスとは自分で選択する生き方のこと。」
  • 「第4章 50歳の壁はさらに高い。」

1980年代からのそれぞれのフリーランスの半生を紹介している。いまとは時代の違いがあるため、理解が難しい状況や雰囲気などもある。大雑把に言えば、人生の落伍者の半生、そういった人たちがやってくれたのは時代背景とフリーランスという生き方だったからだといった切り口で展開される。普通のサラリーマンとして働きつつ組織に馴染めずに辞めてきた私とはまったく相容れない生き様や考え方があって素直に受け入れ難い内容ではある。まったく生き様が異なるのに、読んでいていくつか共通項を見いだせるのは、ひとえに組織や集団に馴染まないという性格や特性によるものだと思える。彼らも私も、自分自身が納得いかない論理や仕事をずっと続けられないという点で合致している。それが生活の先行きを不透明にしていても。

ここまで読み進めて40歳の壁も50歳の壁も、一般人の感覚からしたら壁でもなんでもない。著者は恵まれた環境が与えられているにも関わらず、自らがその環境を投げ出し辞めていて、それを壁があるからと表現しているに過ぎない。身勝手で努力不足にもみえるが、全力で擁護するとしたら、組織に馴染まない人間はそうせざるを得なくて他の選択肢などない。だから壁に突き当たってしまうという主旨に読める。

参考になる内容や共通項はあるのでいくつか引用してみる。

そこで浦沢さんはまず「戦略的に」受けを狙って『YAWARA!』をヒットさせ、圧倒的な実績を築き上げることで、「描きたい作品が描ける」作家に自分を鍛え上げたと言えます。これは誰もが考えますが、実現は至難の技です。私はあそこまで商業作家としての戦略を立て、実行し、成功した作家を見たことがありません。作家はつい「自分の描きたいものを描くんだ!」と思いがちですが、 プロ作家として成功するためには、自分の苦手なものでも描かなければならないことがあるのです。芸術家肌の作家と、プロ作家は違います。浦沢さんは、ほんもののプロ作家だと私は思います。

浦沢直樹 さんの凄さを説明している。浦沢さんはもともとデビューして「MONSTAR」のような作品を描きたかったが、新人が描くには編集者の反応は芳しくなかったという。そこで苦手だったが、当時流行りの美少女ものを選び、「YAWARA!」「HAPPY!」とヒットさせることで人気を盤石にした上で本当に描きたかった「MONSTAR」に取り組めたという。it 業界で例えたら、受託開発でお金を稼いでいつか自社プロダクトまたは自社サービスを提供したいと考える会社はたくさんあれど、それで成功している会社は本当に少ない。まさに誰でも考えるが実現は至難と言える。

フリーにとっての40代は、自分の「マンネリズム」との戦いだと言えるかもしれません。 作家を含めたフリーランスは、ふたつのタイプに分けられると思います。 ひとつのパターンの仕事をえんえんと続けることができる「職人タイプ」と、つねに新しいテーマや手法を開拓しようとする「芸術家タイプ」です。 もちろんどちらのタイプにも勉強・研鑽が必要になります。

フリーランスに限らずサラリーマンも同じだと思う。40代は出世競争の結果が出てから敗れた人たちがどう生きていくのかに近いものがある。私はわりと両方の特性がある方な気がするけど、どちらかを選べば「芸術家タイプ」なんだろうと思う。

少なくとも 私は、ブログを書き続けたことで、40歳以降におちいっていたスランプから脱出することができました。

この一文に関心を示す人とそうではない人に分かれると思う。まだ論理的に説明できないが、私は書くことをずっと続けることに大きな意義と実利があると考えている。書くことをやめた人たちが悲惨な状況に陥っているのをみかけることもたまにある。私も日記を書き続けて人生が安定したように考えている。日記を書くことに時間を取られる分、個々の業務のパフォーマンスは下がっているけれど、人間としてのパフォーマンスが安定するようになった。まだ感覚的にしか表現できない。

私にとっては、お金より、やりたいことがやりたいようにできるかが大事で、それができなかったら、仕事をなげうってしまうのです。その後、どうなるかなんておかまいなし。後悔もしません。

この一文も共感できる人とそうではない人に分かれると思う。私はまったく共感できる。

つなぎの1月3日

4時に寝て10時に起きた。まだ正月ボケみたいな感じ。1月3日だとまだまだ役所も会社もお店もあいていないので手続きがなかなか進まない。

追悼

なんとなく落ち着いたら書こうと思っていた追悼の記事を書いた。父に感謝するところはあれど恨みも忌避しているところはない。一方であまり関心をもっていないのも事実としてある。ないまぜのうちの家族の歴史や経緯、その一員であった私の感情などを混ぜくちゃにして書き上げた。感覚的には中年のおっさんのやや気持ち悪い記事になったかもしれない。あと私のサイコパス的な一面も出ているだろう。不快に感じる人もいるかもしれない。それでも一通り書き終えて私の中ではすっきりした。父について区切りがついた。

四十九日法要の手配

家族とやり取りしながらまずご飯を食べる場所を決める。父が祖父母の法事をしていたときはある旅館で行うのが固定になっていた。サービスの内容は悪くないのだけど、いつも同じものを食べていたので私も姉も飽きがあった。この機会に違うところでやってみようと決めた。先ずある国民宿舎に問い合わせたが、すでに先約が入っていた。次にある料理屋さんに問い合わせたらぎりぎり人数が入れそうなのでそこで予約した。1人あたりの料理の予算は6000円とした。インフレの影響もあるから8000円ぐらいが妥当ではないかと母が言っていて、料理屋のスタッフさんに聞く分にはだいたいは5000円前後と話していたので旅館じゃないから場所代のような料金がなくて安いのかもしれない。実際にそこで法事の食事をしたことがないから、今回初めて食べてみて料理の質や量も評価してみることにする。揚げ饅頭どうします?と聞かれた。年配者が多いと必要とすることが多いと話されていたのでそういう慣習みたい。姉に聞いたら必要ということなので膳先につける。

ジャンプスターター使ってみた

1時に寝て7時半に起きた。なんともなく新年あけた。朝ご飯食べて孤独のグルメをみながら宅急便が届くのを待った。

hugo のスタイル修正

日付に曜日を付けるように変更した。タグから過去の日記をみたときに曜日があると役に立つときがたまにある。

<span class="post-date">
  {{ .Date.Format "2006-01-02 (Mon.)" }}
</span>

テーマの terminal のバージョンをあげたらビルドに失敗するようになった。extended をインストールしないと scss/sass 周りのビルドに失敗するらしい。github actions の hugo セットアップの設定も変更した。

ジャンプスターター

年末に注文したジャンプスターターが届いた。実家の軽トラのバッテリーがあがってしまいエンジンをかけられないという。いつもはディーラーさんに来てもらってバッテリー交換なり他の車と接続してエンジンをかけるなりをやってもらっていた。たまたまテレビをみていたら雪国での役立つツールとしてジャンプスターターと呼ばれるものがあることを知った。スマートデバイスなどの予備バッテリーの形状で車のバッテリーに接続してエンジンをかけられるらしい。さっそく amazon で検索してベストセラーのタグがついている「PHILIPS フィリップス ジャンプスターター 12000mAh大容量 ピーク電流800A 12V車用 エンジンスターター」を購入した。うちの軽トラでも試してみたら問題なくエンジンが始動した。車のバッテリーが弱っている場合、boost ボタンを押してブーストモードで接続しないといけないようだ。boost ボタンを押すのがわかって接続・設定したらエンジンがすぐに始動した。うちみたいな小さい兼業農家でたまに軽トラを使うといった家でも携帯バッテリーは充電がすぐできて、保管も場所取らずでとても便利。これはよい買いものだと思えた。

温泉

実家近くの うずしお温泉 を提供している ゆとりっく に行く。私にとっては銭湯へ行く感覚で実家に帰ったとき1回は行く。いつも通り温泉に浸かってそれから三ノ宮へ戻ることにした。

紅白歌合戦

1時に寝て5時に起きて朝ご飯を食べてからまた寝て8時ぐらいに起きた。親が4時ぐらい起きて作業しているから変な生活になっている。テレビみながら家の用事をしながらだらだら過ごしていた。例年なら今日のお昼ぐらいから実家へ帰ってきて、夕方から高校の友だちの家へ行って麻雀しているところだが、今年は集まりが悪くうちも葬儀があったので中止した。

紅白歌合戦

とくに意味もなく、親がみてたから数年ぶりに紅白歌合戦をみた。若いアーティストと年配のアーティストをバランスよく出演しているようにみえた。私が若い頃に聞いていたアーティストもいまや50-60歳ぐらいになる。いま紅白歌合戦をみると、年配のアーティストの方が私のよく知っているアーティストになる。

YOSHIKI が復活した THE LAST ROCKSTARS をみて驚いた。全然知らんかった。最近はピアノを弾く YOSHIKI のイメージがある。紅白歌合戦でも最初はピアノを弾いてて途中からドラムに変わってた。久しぶりにドラムを叩く YOSHIKI をみてちょっと嬉しかった。あとウタがグラフィック出演していて仮想と現実の融合みたいな取り組みをしているのもよかったと思う。これを歌っているのは「うっせぇわ」の人なんやね。

もう1つ思い出した。Aimer が紅白歌合戦に出ていた。どんな人か知らなかったので初めて歌っているところをみた。残響散歌そのものは鬼滅の刃のアニメをみていたから知っていたけど、歌っているのが Aimer だというのは気付いてなかった。改めて聞くと Aimer らしい特徴もあって、初見で気付かなかったのは新しいアレンジに挑戦していたりもするせいなのだろうとか思っていた。

葬儀の翌日

0時に寝て5時半に起きた。たぶん何度か起きたけど、久しぶりによく眠れた。ここ2-3日ほとんど寝てなかったせいかな。

お寺で予定調整

四十九日法要 の予定を立てないといけないのでお寺へ訪問した。淡路島では真言宗の宗派が多いらしい。うちもそう。明日から7日ごとに49日までの日程がある。7日ごとに住職にお経をあげていただく。告別式に初七日をしているので1月1日の分は済みとなっている。おそらく宗派や地域によって異なると思うが、このうち、重要なのは35日と49日だという。35日に行う だんご転がし という風習は淡路島独自のものらしい。

  • 命日: 12月26日0時34分
  • 7日: 1月1日
  • 14日: 1月8日
  • 21日: 1月15日
  • 28日: 1月22日
  • 35日: 1月29日
  • 42日: 2月5日
  • 49日: 2月12日

35日は家族のみで、49日は親戚を呼び一般的な法要を行う。その他の日は親族の選択でよいという。省略可能な背景として昨今は多忙な人が多く、亡くなった人よりも生きている人の方が大事という考えからだという。母は信心深いのでなるべくお経をあげてほしいというので7日ごとに住職を招くのではないかと思う。私は35日と49日の2つに参加する。日曜日なのでお仕事に影響を与えず都合がよい。これから法事や親戚の用事などで実家に帰る機会が増えていくことになる見通し。

建具屋さん

家の玄関の鍵の調子が悪い。たまにうまくまわらないときがあって、壊れる前兆みたいな状態。ホームセンターに鍵交換してもらえないかを聞いたら作業員が徳島県にいるそうで、来てくれるかどうかすら分からないという。近所の建具屋さんに行ったら快くみてくれるという。田舎の家の困ったことは近所の建具屋さんやと理解できた。建具屋さんの主人が丁寧に応対してくれた。困ったときはここに来ようと安心できた。初めて行ったお店の、接客態度はほんと大事だと思う。その丁寧さや論理の明快さをみて私はリピーターになることを決める。論理が多少通じなくても親切だったらそれでもよい。そういう意味では人のよさや人間力は論理よりも大事なのかもしれない。翌日9時から家に来てくれて調査した上で交換用の鍵を発注してくれるという。16時に訪問して状況を説明して翌日すぐ来てくれるという対応が気に入った。

オンライン忘年会

はらさんが投稿していたのをみかけた。gather に集まってオンライン忘年会に参加した。私は葬儀があったので直近の近況報告や忘年会の予定を2つほどキャンセルしていた。葬儀も無事に終わって一息ついていたのでちょうどよかった。最大8人が参加していて、私は知らない方が多かったものの、ざっくばらんにお話しして19時から始めて22時半ぐらいまでやっていた気がする。よしださんもおられた。よしださんの近況は私の置かれた状況とも類似していて、私自身、よしださんの生活をモデルケースの1つとして参考にしている。コロナが働き方や生活スタイルに大きな変革をもたらした。3年前には想像もしなかった世の中の変化があるなぁとみんなで話したりしていた。

父の告別式と初七日

1時に寝て3時に起きた。それから家へ帰ってお風呂に入ってきた。5時頃に斎場へ戻って朝ご飯にサンドイッチとおにぎりを食べたら急に眠くなって6時から7時半まで軽く仮眠した。

告別式は10時から。親族でも9時集合であったものの、8時過ぎに親戚が2人来られた。前日に通夜のみ参加の親戚がいて、告別式に参加できない事情があるせいか、無理を通して香典を置いていった。うちは家族葬で香典を辞退するという理念で葬儀をしている。とはいえ、親戚もさまざまな考え方や事情があるので香典をどうしても送りたいという思いを遺族が断固として拒否することも実際のところ、難しい。

そういった隠れ香典が最終的に5家になった。当然、香典をいただいたらお返しをする必要がある。記事にもあるが、香典という制度を辞退する背景として次の2つのメリットがある。

  • 弔問客の経済的負担を下げる
  • 葬儀後の遺族の作業負荷を下げる

香典辞退が行われるようになってきているのは合理化といった狙いもあるのだろう。世の中の変化における効率化と慣習と文化と人の思いという、一概にこうですとはいえない、複雑な調整作業をしながらバランスをとっていく必要があるようにみえた。その後、弔問客の集まりがよかったので10時前には告別式が始まったように思う。住職がお経を読んでいる間に焼香を行い、住職の法話、喪主の挨拶と、ほぼ通夜と同じ流れで葬儀は進んでいく。

その後、棺の中に故人の物やお花を入れて出棺となる。11時頃。私は喪主なので霊柩車に乗って火葬場へ向かった。火葬場へ住職も着いてきてくれて、お経をあげていただき焼香をして最後のお別れをする。住職が要所要所でお経をあげてくれていたように思う。火葬場の装置に棺を設置して火葬のスイッチは喪主の私が押す。私はそこに躊躇はなにも感じなかったのだけど、人によってはそういった行為が苦手な人もいるらしい。

火葬場から戻ってきて、残った人たちで 精進落とし と呼ばれる会食に入る。告別式よりは参加者も減って、みんな黙々と食べてすぐに休憩に移っていった。火葬は燃やした後に冷ます時間もいるので2時間ほどかかる。たまたま斎場には別の家の告別式も開催されていて、火葬場は1つしかないので順番に行くしかない。それで少しだけ予定よりも遅れて13時過ぎから火葬場に骨を取りに行くことになった。喪主は骨壷をもって運ぶ役割となる。これはとくに骨壷をもっているだけで他の参列者とやることはほとんど変わらない。

火葬場から骨壷をもって帰ってきたら、14時からそのまま 初七日 を執り行う。住職が再登場してお経をあげていただく。昨日の通夜から告別式、火葬場、初七日と住職はお経をずっと唱え続けていて、このお仕事も大変だなと真後ろで唱える姿をみながら敬意を払ってみていた。これまでも住職の姿をみてきた機会があったにも関わらず、喪主としてより当事者の意識が高い状態でみるとまた違った趣を感じた。法要は参列者も経典を受け取って一緒に唱える。それまで眠気はなかったが、お経を一緒に唱え始めて急に眠気が襲ってきて3回ぐらい寝落ちしそうなリスクの高い状態になっていた。危うく経典を落としてカクってなるところだった。お経のリズムや単調さが眠気と相関があるように思える。お経を終えた後、住職の法話を聞く。父の入院生活にも触れながら私が聞いたことのないお話をされた。

大人が子どもの振る舞いを喜んだりする背景に、自分ができなかったことややりたかったことなどを子に託すという側面があるのではないか。

家の主が代替わりしていくことの摂理や在り方のお話だった気がする。その後に喪主の挨拶へと続く。おそらく通常の法要なら少し長い挨拶をすべきなのだろうけれど、参列者はすべて通夜からずっと参加されている人たちなので長くは話さず簡潔に終わらせた。それは私の判断で長い挨拶はやめたのだけど、おそらくそれでよかったと思う。

法要が終わった後、親戚で一緒に会食するのがこれまでの慣習だった。昨今はコロナ禍対策と家族葬という建前もあり、法要膳は基本的にお弁当を持ち帰るという制度に急速に変わりつつあるらしい。おそらく施主・参加者にとって合理的であり、且つコロナという大義名分もあるのでこの流れに抗うことはできないようにみえる。社会的な事情も含めて時代の流れと言えるように思えた。法要膳と膳先のものをお渡して斎場では14時半に解散となった。

斎場のスタッフの方に家に着いてきてもらい、祭壇の設置、提灯・カゴ、今後の供養の作法などを教えていただいた。それらが全て終わって15時半ぐらいかな。それから隣保の方々へ会葬御礼と一品つけて挨拶にまわる。これまでの慣習では葬儀の手伝いに隣保の方々が参加するところを、家族葬なのでと私がお断りを入れた。隣保もこれまでの慣習があるため、手伝うと食い下がるのだけど、お気持ちだけでとここはやや強引にお断りした。そのご挨拶も兼ねてまわってきた。言うても8軒なので小一時間で終わった。

これで一通りの葬儀の諸々は終わった。17時頃には家に帰って休むことができた。

父の通夜

私は0時ぐらいから横になっていたものの、2時に母が家に帰って4時過ぎに戻ってきたり、わりと周りでバタバタしていたのであまり寝ている雰囲気ではなかった。また3時頃に石油ファンヒーターの灯油がきれて、そこから冷え込みがずっと大きくなって、一番寒い時間帯に部屋がぐっと寒い状況になって、斎場のスタッフが帰る前に灯油を補充しておくことを学んだ。それでも5時から7時までの2時間ほどはこたつにくるまってよく眠れたと思う。2-3時間しか寝てないが、わりと1日を通して平気だった。

8時からお寺へ訪問し、住職に故人の説明を行い仏具を借りる。実は住職の父も昨日亡くなっていて、今日が告別式になる。9時をまわると告別式の準備に忙しいだろうと見通して8時から伺ってみた。快く応対してくれて8時からお茶を飲みながら故人のお話などをした。うちの地元の住職は地域から追い出されていなくなっている。そのため、隣の地区の住職にお願いするようにしている。うちは祖母と祖父の頃からずっとお世話になっているので父のことも覚えていてくれて、いくつかお話をした。

斎場に戻り、生花・乾物・果物の発注と金額の確認し、10時30分から入棺をしてもらう。故人を棺に納めていただく際、かるくお湯で流し、散髪してもらい、服などを着せ替えてもらって見た目を整える。これはいくつか追加料金で行ってもらうことだけど、顔がとてもきれいになって、訪れた弔問客にも評判がよかった。なるべくよい状態で故人を見送るという意図で追加料金を支払ってやった方がよいと私は思った。

1時間ほどで入棺も済み、13時に成年後見人の弁護士さんが来られた。通夜は参加できないものの、今後の手続きのために死亡届のコピーを手渡す。死亡届を提出すると、故人の名義の銀行口座は凍結して一切の入出金が出来なくなるらしい。私が訃報を聞いてすぐに弁護士さんにメールで一報を入れていたのが功を奏して、弁護士さんはすぐに裁判所の確認をとって、緊急で200万円を父の口座から出金しておいてくれた。このお金を使って葬儀にかかる必要の支払いができる。これをしていないと、一旦身内ですべて支払うしかなくなる。父の口座が凍結されると、相続しない限り出金出来なくなくなっていた。なるべく相続前に父のお金を減らすことは節税につながるので大きな違いになる。ちょっとした tips のようなもので銀行員は口座を凍結するので名義人が亡くなったことを知ることができる。父は銀行員だったので、連絡していないにも関わらず、通夜に勤め先だった銀行から生花が届いていた。その後、相続の話と 任意後見制度 の話を伺う。

弁護士さんとの話が終わり、斎場のスタッフと家に戻って遺骨を安置する祭壇を作ってもらい、今朝に住職から借りた祭壇の仏具も設置してもらう。なぜお寺から仏具を借りないといけないかというと、宗派が異なると祭壇の作り方は異なるため、宗派ごとの専用の仏具でないといけないらしい。大雑把にいえば、ISO で標準化されていないので祭壇に対して宗派独自拡張を追加するみたいな話だと理解した。飾りが終わったら後でお寺に返す。祭壇の設置前、同時に 神棚封じ もしていただいた。

斎場に戻り、早めに来られた親戚に挨拶しつつ、提灯を選択してもらう。これも親族ではなく、親戚が選択して告別式に飾られる。ややこしいのがグレードとオプションがあって価格差もあって、親戚の思いもあるので、一概に親族で決められず、親戚間の調整をしてもらう必要がある。支払いも親戚になるため、割り勘にするにしろ、ある親戚が購入するにしろ、調整が必要になる。

17時になって通夜が開始された。住職がお経を読んでいる間に焼香を順番にしていく。私は喪主なので一番最初に行い、焼香台の横で立って弔問客の焼香を見守る。他人の焼香を間近でみる機会がこれまでなかった。焼香を眺めていると、人それぞれ焼香のやり方がバラバラで様々なスタイルがある。途中から焼香スタイルの観察にわりと関心をもってみていた。

お経が終わり、住職の法話を聞く。

人は2度死ぬ。1度目は亡くなったとき。2度目は人々の記憶からなくなったとき。

素晴らしい法話であった。この話しは過去に聞いた記憶があるなぁとか、既視感かもしれないが、思い返していた。

最後に喪主の挨拶。通夜の挨拶は簡単でよいとのことで御礼と明日の告別式の案内で締めた。通夜はそれで終わり、弔問客によってはお膳を持って帰る人、その場で一緒に食べて帰る人、いろいろな事情でこれも様々。弔問客に小学校の同級生がいた。市役所で働いているので死亡届から訃報を知ったのでわざわざ来てくれた。感謝。私が逆の立場だったら数年会ってもいない小学校の同級生の父の通夜に弔問するだろうかと考えさせられた。私自身あまり社会性のない人間なのでそういうところをできる範囲で正していった方がよいのかもしれない。

その後、残った親戚と一緒にお膳を食べて控え室でゆっくり過ごしていた。そういった親族も21時頃で全員帰った。私はそれから記録を整理して、明日の告別式に備える。明日は告別式と初七日の2つの葬儀がある

訃報

0時前に母から父が亡くなったという連絡があった。たまたまオフィスで作業をしていて電話を受け取った。以前 母の入院の連絡 をもらったときも日曜日の夜にオフィスで作業をしていたときだった。2回続いたので日曜日の夜のオフィスで受ける連絡は悪い知らせというジンクスができた。

話を聞く分には、看護師さんが20時に見回りしたときはとくに異変なく、23時に見回りしたときはすでに呼吸もなく、蘇生措置をとる暇もなかったとのこと。その後、母が病院へ移動して死亡確認し0時34分が死亡日時となった。私は6時35分始発の高速バスで帰ることにした。2時から4時の2時間ほど寝て準備して帰る。平日の始発で下りのバスに乗ることがなかったので知らなかったが、高速舞子のバス停で淡路島へ行くために乗車する人たちが30人ほどいて驚いた。平日なのでおそらく本州側から淡路島へ通勤している人たちもいるんだということがわかった。

その後、斎場に着いてからスタッフの方々と通夜と告別式の段取りを組む。私はこれまでにこういったことの経験がないので言葉も段取りもわからなくて今回は学びの機会となる。いうても、いまは斎場で行うのが定着したため、家で行うよりはずっと負担が少ない。またコロナによって家族葬を行う本音としても建前としても適正な理由ができた。うちも家族葬で行うので親戚や隣保の関係者がかなり減る分の調整コストを下げられた。

そして、私はそのまま葬儀場の控室で2泊3日で過ごすことにした。わりと部屋は暖かくてトイレも近くてキレイなのでお風呂のないホテル暮らしのような感覚で快適ではある。本当は今日に、通夜をするのがよいのではないかと段取りを始めたのだけど、いくつか調整がつかず、翌日に伸ばすことにした。逆にその分、今日は打ち合わせだけのお仕事ができて、それはそれでうまくはまったピースもあった。死亡届けを市役所へ提出し (これだけで待ち時間を入れて2時間半かかった) 、火葬場の許可証を入手し、喪服を購入し、母の通院など、余裕をもってタスクを消化できた。夕方に斎場へ戻ってきてそのまま守りの役目についた。もともとあまり眠れないので座布団とこたつで寝ててもとくになんの問題もなかった。

50歳の壁に備えて

昨日は寒さに耐えかねて今冬で初めて暖房を入れて寝た。お腹を冷やさなかったので効果はあったように思う。寒過ぎる。22時頃から寝て2時に起きて5時ぐらいまでだらだらして7時に起きた。最近気になるのは寝ていたら吐き気がして苦しむ日が多い。朝と昼は平気なのに眠るのが大変。

ストレッチ

今日の開脚幅は開始前153cmで、ストレッチ後156cmだった。やはり先週とほぼ変わらず。急に寒くなって体調を落としているのもある。筋肉の状態も右太もも周りの張りや違和感と右腰の張りが依然として強い。よい・わるいで言ったら明らかに状態はわるい。今週はそんなにハードには働いていないし早く帰って休む時間も多めに取ろうと努めたものの、夜に吐き気で眠れないという苦しみがそのまま筋肉に表れているのではないかとすら思えてくる。それぐらい眠れない。歳とるとそんなもんなのかなぁ。

フリーランス、40歳の壁

はらさんがお勧めしていたので フリーランス、40歳の壁 を読み始めた。「序章 フリーランスは自由という名の業である。」を読んだ。

本書で取り扱う「自由業」は、著述作家業を中心とした「表現業者」のことです。

プログラマーは「モノ作り」よりも「モノ書き」に近いという言葉もあるように、大きな枠組みでは表現と呼べるかもしれないけど、どうやら本書の著者はフリーライターという職業らしい。

自由業者には2種類あると思います。 自由業に「なる」人と、「ならざるを得ない」人 です。

前者は会社員をやりながら余暇で作品を創り、十分な経験を積んでフリーになる人。後者は、さしたる経験も実績もなくフリーに「なってしまう」人。

序章を読み始めた冒頭では私は自由業にならざるを得ない方の人かなと思って読み進めていた。しかし、序章全体を読み終えると、普通の会社勤めの働き方にあわせられない人を「ならざるを得ない」人と表現しているようにみえる。そこまでのアンマッチはないという視点から言うと、私は前者になってしまう。けれども、なにか引っ掛かっているところもある。40歳のとき働いていた会社で早期退職制度が設けられ、私も50歳になったらそれで辞めてくださいと言われる未来がリアルにみえた。周りに疎まれながら会社にしがみついて養ってもらうといった生き方は私には向いていない気がする。それはプライドがどうこうではなく、私にとってそんな人生を楽しめるようには思えなかった。だから私は辞めるしかなかったし、自分で仕事を創っていくしかないと決めた。もちろん社会人として20年ほど働いた実績はあったけれど、会社経営の経験はなかったし、会社をやっていく展望も準備もなにもなかった。まさに無計画にいきなりフリーにならざるを得なかったという表現が腑に落ちた。

私は、なんとなくなれてしまう自由業者は気楽な仕事、と言いたいのではありません。その反対で、こういう人は年とともに「壁」にぶつかる率が高いと言いたいのです。30歳・40歳・50歳の節目ごとに壁は襲ってきます。10年経るごとに、壁は大きく、厚くなります。それでも人間は生きていかねばなりません。

50歳という節目に私はどんなお仕事をしているのか、現時点ではまったく想像がつかない。一方で著者は自由業にならざるを得なかった人には大きな壁があると説いている。はらさんと話していても50代は単価を下げられるという話しはよく聞く。今後の働き方への戒めとして読んでおくのもよさそうに思える。