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その後の台風の影響

台風の影響で昨日も今日も終日、新幹線は取りやめになっていた。木曜日に帰ってこれた ことには大きな意味があった。本当に助かった。

ストレッチ

今日の開脚幅も開始前149cmで、ストレッチ後156cmと普段通りの数値だった。運動できていないので筋肉痛もなく、デスクワークの疲労ぐらいしかない。いつも通りトレーナーさんと雑談して硬くなったカラダをほぐしてもらう感じだった。今週は出張していたのと、出張中の業務時間も普段より少なかったのでとくに疲労がたまっているわけでもなかった。運動せず筋肉痛もなくストレッチを受けるともったいないような気分にもなってきた。いまの開発フェーズが終わったらまた運動を再開できるかなぁ。

成就しない結末への期待

今期のアニメで 逃げ上手の若君 を見始めた。最初は「ながら」でみていたせいか、あまりぱっとしなかったものの、改めてちゃんと数話を見返したらおもしろい作品だと思えた。もともと私は歴史漫画が好きなので歴史ジャンルというだけでもみてしまう。著者の 松井優征 さんの作品は過去に「暗殺教室」を読んだこともあって好きな漫画家の1人でもある。したがって、私はもともとこの作品を知っていたし、関心をもっていた。いままで読んでいなかっただけ。主人公は 北条時行 という、室町幕府が成立する時代の、鎌倉幕府最後の北条家の跡継ぎになる。足利尊氏 は歴史の授業で習うが、北条時行を私は覚えていないから習わなかったのかもしれない。歴史の影というのか、この作品は敗者を描く作品になる。

余談だが、神戸駅のすぐ近くに 湊川神社 がある。逃げ上手の若君の作品内でも出てくる 湊川の戦い の、あの「湊川」であり、神戸という地元応援の文脈で 楠木正成 も応援している。楠木正成は没後から江戸時代まで知名度は低かったが、なぜか徳川光圀公に評価され、その後、幕末の維新志士から崇敬の対象となり、歴史上の時間が経ってから知名度があがった稀有な武将でもある。そういう背景もあってなのか、逃げ上手の若君の作品内でも特異な武将として描かれていて、史実から湊川の戦いで足利尊氏に負けてしまうのだけれども、それでも格好よく戦って、その智謀を発揮している。この作品を読んでさらに楠木正成への関心が出てきた。

歴史漫画は結果がわかっているから予定調和で読み進める。主人公が勝者であれば安心して読めるが、この作品は敗者なので結末は悲劇となる。ある意味、敗者だからあまり史実の資料が残っていなくて創造性を発揮できるところもあるだろう。そこが漫画家の腕の見せ所だと思う。北条時行による「中先代の乱」があったから南北朝が生まれ、その後の室町幕府への影響も大きかったように、この作品内では描かれている。敗者も歴史を作っていく上での重要な役割を担っているという表現になっていて歴史の背景を想像して楽しみながら読める作品になっていると思う。

人を助ける人の特性

今日の運動は腕立て,スクワット,縄跳び(両足跳,駆け足跳),散歩,ジョギング,ハンドグリップ,ダンベルをした。統計を 運動の記録 にまとめる。縄跳びの前後に 右股関節の改善体操 をした。

みなとのもりの運動

前回の所感 。お仕事のテスト作業にいっぱいいっぱいなのと、週間の天候もよくなくて外へ出掛けにくいのもあり、今週はまったく運動できていないように感じていた。ふりかえると、月曜日は公園へ行っていたし、水曜日もバドミントン できているし、今日も公園へ行けたので週の半分は運動できていてそれほど悪くない気もする。いつの間にか、毎日運動して当たり前のような、習慣化のチカラでそんな感覚になっている。

ハンドグリップをして右手の握力がないことに気付いた。バドミントンで右手の握力がなくなるんやと気付いた。あと7月に入ってからコンクリートの上で縄跳びしている。少し前に公園の芝生を養生したので葉の丈がふさふさになって、縄跳びすると葉に引っ掛かるので飛びにくくなってしまった。だから平坦なコンクリートの上で跳ぶしかない。ひざを痛める懸念があるから、コンクリートよりはもう少しやわらない地面がほしい。

『千と千尋の神隠し』と民俗学

たまたま facebook でみかけた投稿がおもしろかったのでメモしておく。いつか非公開になるかもしれないから引用。

『千と千尋の神隠し』について、大学で研究をした者です。
なお、この作品にはかなりの量の民俗学が隠されているのですが、他所で回答いたしましたので、こちらではテーマに関する私見を、参考になればと書かせていただきます。
「千と千尋」というテーマには、まさにアイデンティティについてのテーマが散りばめられていると考えています。
アイデンティティとは、自己同一性という訳されますが、そもそも自己同一性とは何でしょう。
私は、男である、教師である、父である、娘がいる、国籍は日本である、、、などが思い浮かぶ人が多いのですが、それは、自分が自分であると確認できる「要素」です。
でも、要素はあくまで要素なので、その人そのものではありません。
自己同一性とは、「私はこうしたい/こうだ」という「意志がブレない状態」のことを言います。
まず、千尋が迷い込んだのは、環境を否定すれば消えてしまうし、自分の意志がないと子豚にされてしまう世界です。
千尋に対するハクの忠告にも、「嫌だとか、帰りたいとか言わせるように仕向けてくるけど、働きたいとだけ言うんだ。辛くても、耐えて機会を待つんだよ。」とありますね。
これは現実世界でも同じことが言えます、環境や他人のせいにしても、何も変わらないし、あまりいい事が起こりません。笑
また、人は目先の欲望や、他人のせいにすることで、簡単に自分自身を失います。
例えば、千尋の両親は、欲望にまかせて行動することで、自分自身を失って豚になりますね。
湯屋に勤めるカエル男や、ナメクジ女も、金に目がくらみ自分を失う。
ハクも魔法使いになりたいがために、名前を奪われ、自分を見失います。
湯婆婆もお金に目がくらんで、本当の自分を失ってるのかもしれません。
ちなみに、カオナシに関しては、もはや自分が何だか分かってもいません。笑
カオナシは自分を失った人を食べて、他人の言葉で喋ります。千尋のためにと言いながら、自分の言葉で喋らないんです、すべて他人まかせ。
だから顔がないんでしょうね。
そして、人は忘れる生き物です
映画では、名前というキーワードで、これを暗示してますね。
名前を奪われて、肩書きだけ与えられて、欲望だけを追いかければ、誰でもなくなってしまいます。アイデンティティを忘れてしまったカエル男やナメクジ女の顔が一緒なのも、暗喩かもしれません。
一方、夢を持っているリンは、顔立ちもハッキリしていて、千尋を助けてくれます。
そうなんです、自分の夢や強い意志を持つ人って、「人を助ける」んです。
これをちゃんと描いているアニメ映画って、そうそう無いので『千と千尋の神隠し』は本当に素晴らしいと思います。笑
釜爺も自分のことは忘れているかもしれませんが、仕事への意志があります。ハクも、銭婆も強い意志があるから、千尋を助けるんですね。
人は、人を助け助けられることによって、少しずつ思い出します。私はこうしたい、私はこうだ、というアイデンティティを。
千尋がやたら頭を打つのも、思い出に関する暗喩でしょう。笑
そうして、自分のことを思い出した瞬間のハクの涙は、観る度にもらい泣きします。笑
本当に自分がしたいことや自分の意志に気づいたり、思い出した瞬間、涙が出るものです。
最後に、真っ直ぐに現実世界へと帰る千尋の姿も、凛々しいですね。
自分という過去は大切ですが、振り向かないものです。彼女にも前途有望な未来が待っていることでしょう。
そしてきっと、あなたにも。

南雲 明氏の投稿

とくに「自分の夢や強い意志を持つ人って、「人を助ける」んです。」という一文が響いた。私の経験則でも間違ってはいない気がする。私自身も、自分が迷っているときや余裕がないときに他人を助ける余裕はなかった。いまはたまにお世話役のようなこともちょいちょいやるのは、自分の生きる意味や目標が明確になってきて、それで少し余裕がでてきたからかもしれない。

三宮の歴史を調べ直した

4時前に寝て7時過ぎに起きて、8時半に起きて10時頃に起きた。昨日は飲み歩いた後にオフィス戻って作業していたので寝てなくてちょっと疲れた。1日中雨が降ったりやんだりで外に出掛けにくい日だった。

今日の運動は腹筋ローラー,スクワット,縄跳び(両足跳),散歩をした。統計を 運動の記録 にまとめる。

三宮の歴史

昨日の飲み会で話題に出たことを調べ直した。JR の駅名には「三ノ宮」と「ノ」が入っている。これは「さんのみや」と読みやすくする配慮で地名は「三宮」が正しいそうな。1868年2月4日 三宮神社 付近で 神戸事件 が起きる。ちょうど明治維新の頃で 旧居留地の歴史 もこの時期から始まる。神戸事件とは大名行列を知らないフランス人の水兵が行列を横切ろうとしたことに対して、行列の隊員が無礼者と槍で軽傷を負わせ、その後、怒ったフランス人は銃撃戦を始めてエスカレートし、一時的に外国軍が神戸を占拠するまでに至った。明治政府初の外交問題となり、隊の責任者を切腹させることで一応の決着をつけた。そして、この事件が三宮という地名を全国へ一躍広めた。

もともと日本人が住んで栄えていたところは兵庫駅や新開地付近?といった、旧居留地から少し離れたところにあった。旧居留地はそこから少し離れてなにもないところに外国人が住むために提供された。そこには日本人と外国人とのトラブルを避けるという意図もあったらしい。現在の神戸の繁華街の中心地は三宮から元町にかけてになるわけだけれども、三宮から少しズレたところに神戸駅があってその付近に 新開地 がある。

旧湊川の東岸には明治初頭から福原遊廓が位置しており、その西隣にできた新開地は大正から昭和前期にかけて映画館や劇場が立ち並ぶ神戸最大の繁華街となった。その繁栄ぶりは「東の浅草、西の新開地」と謳われるほどであった。湊川で生まれ育った映画解説者の淀川長治は、新開地を「神戸文化の噴水」と称した。

いまでも新開地の商店街はそれなりの賑わいはあるが、あまりパッとした雰囲気ではない。三宮が発展したのは旧居留地の周辺を外国人の要望によってどんどん発展させていったからという背景がある。1874年に敷設された三宮駅も実はいまの「元町駅」があるところにあった という。元町という元三宮を指しているのかな?と思ったけど 文明開化を象徴する「元町」 によると、そういうわけでもないらしい。元町と名付けられたところにたまたま昔の三宮駅が敷設されただけのようだ。

居留地側からこの川の改修を強く要望され、明治政府も放置することが出来ず、付替工事を行うことになったのです。

フラワーロードは昔、生田川だった

旧居留地の外国人がどのぐらい強い要求を通せたかを表す史実の1つに川を移動させたというエピソードがある。現在も三ノ宮駅の東を流れる生田川はもとの流れを移設した人工の川になっている。

ホットクックのレシピ作り

先週は鍋料理を作っていたり、今週は出掛けたり飲み会あったりで家でゆっくり調理する余裕がなかった。2-3日に1回ホットクックで玄米を3合炊いている。最近よく食べているのは、玄米、納豆、刻みネギ、野菜サラダ、卵、サバ缶、もみのり、もずくといったところ。1-2週間ぶりに新メニューに挑戦しようと思って 鶏とカシューナッツの炒め煮 を作ってみた。初めて作るときは要領を得なかったり、具材の量のバランスがよくなかったり、作ってみた所感からフィードバックを得て調整している。現時点のレシピは次になる。もう1-2度作ってみてからレシピを完成させる。

鶏とカシューナッツの炒め煮、おいしかった。ソースを混ぜ合わせる一手間かかっている分、味付けに深みがあったように思う。しょうがを入れ過ぎたので、ややしょうがのアクセントが強くなってしまった。これはこれで好みならそれでもよい気はする。しょうがに相性がよい食材として次回はにんにくも少し入れてみる。調理開始のスイッチを押してから25分程度で完成するのも手短でよい。

初めて rbac なライブラリを実装した

22時頃から休んでいて寝たり起きたりで7時に起きた。起きたらネットの記事とかだらだら読んでた。

rbac なライブラリの実装

昨日から認可のための仕組みを調査している。私の中ではもっとも一般的な rbac (role-based access control) でまずは作ってみようと思う。次の2つのライブラリの利用を検討したが、自分たちのやりたいことにあわない気がして今回は見送ることにした。

一通り、ライブラリとして使えるように参照実装した。これから実際のアプリケーション要件にあわせてミドルウェアとして rbac な認可処理を作っていく。

変わりゆく世界秩序

サンフランシスコが陥った負の“スパイラル” の記事にあるような、米国で950ドル以下の窃盗は軽犯罪とするという法律の変更によって、万引きを逮捕しなくなってモラル崩壊が起きて、小売店の商品を普通に盗むという事件が多発しているらしい。fin-py でおがわさんとそんな話しをしていたら次の動画を教えてもらった。私は歴史が好きなので、こういった「歴史は繰り返す」といったものはだいたいみてしまう。厳密な裏付けはわからないが、盛者必衰という言葉もあるように、どんな国でも栄枯盛衰のサイクルはあるだろうというのは大局の視点として同意できる。過去の歴史と国の栄枯盛衰をいくつかの指標とお金の視点から調査したものでおもしろかった。

日本は80年サイクルで戦争の周期がくるといった説もあるが、この動画でもサイクルの切り替わりのタイミングで平和的にしろ暴力的にしろ、かならず戦争は起きると説明している。もうすでに戦争は始まっている感もあるが、戦争は避けようがないという点も同意するところだ。本も読んでみようと思う。

蝉丸の予習

21時頃から休んでいて何度か寝たり起きたりしながら5時に起きた。だらだらして気付いたら8時半だった。

ストレッチ

今週もとくに本業が忙しかったわけではないが、本業以外のお仕事や作業がたくさんあって、わりと座っている時間が長くて疲れていたのかもしれない。腰は大丈夫かな?と思ったものの、左腰の後ろはかなり張りがあってきつかった。トレーナーさんはあまり気付かなかったみたいだが。あと太ももの後ろの筋が張っていて今日は重点的にそこを伸ばしてもらって気持ちよかった。太ももの後ろの筋って物理的に自分では絶対に伸ばせない位置にあるため、トレーナーが伸ばしてくれることに大きな意義がある。これだけでもドクターストレッチさんに通っていてよいところだと思う。今日の開脚幅は開始前156cmで、ストレッチ後159cmだった。数値はまぁまぁ。

能楽の勉強

前に1度行ったことのある「能のことばを読んでみる会」へ行ってきた。前回の所感はここ 。参加者は私が数えたところ17名。前回、いつもは10人に満たないと仰っていたが、朝原さんのマーケティングがうまくいっているのか、今回も10人は軽く超えていた。

このイベントはとてもおもしろい。

今日のテーマは「蝉丸 (せみまる) 」だった。国語の授業などで百人一首として習ったことを覚えている人もいるだろうか。

これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関

蝉丸 (せみまる)

有名だし、私も学生の頃は百人一首を覚えていたのでこの歌は覚えている。百人一首の引用元となる 後撰和歌集 では次のように収録されている。

これやこの 行くも帰るも 別れつつ 知るも知らぬも 逢坂の関

オリジナルは「別れつつ」だったのが百人一首では「別れては」に改変されている。たまたま調べていると次のような質問をみつけた。

後撰和歌集に収録されている蝉丸の「これやこの 行くも帰るも 別れつつ 知るも知らぬも 逢坂の関」の和歌について、歌集によっては第三句が「別れては」となっている。「別れつつ」と「別れては」では解釈が違うのか、解説が載っている資料が見たい。

https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000328600

この回答でも後世の人たちが「別れては」の方がまとまりが良いとか、読みやすいとか、抑揚が利くとか、そんな理由で勝手に改変してそれが有名になった例の1つだという。能の世界でもこういったオリジナルの単語 (漢字) や言い回しが変わってしまうことはちょくちょくあるらしい。それは文書を複写するときに単純に書き間違えたとか、後世の人がこの方がよいと勝手に表現を変えてしまうことがあって、オリジナルよりもそちらが有名になってしまうことがあるらしい。

日本の歴史を調べるときに最初に調べる辞典として 国史大辞典 がある。そこに蝉丸の記述がある。平安時代の歌人、音楽家。生没年不詳で、伝説的人物で諸説あるとのことで、本当に伝えられている経歴や逸話が正しいのかはよく分かっていないという。最も確実なのが、後撰和歌集の和歌を詠んだのが蝉丸という人物だという伝承だという。蝉丸を祀った神社は3つあり、現代では諸芸道の神様として祀られている。

蝉丸は生まれつき盲目でありながら琵琶の名人として伝わっており「盲琵琶」の祖とされるが、これもよくわかっていない伝承だという。ここまでを能の「蝉丸」を読み始める前の予備知識として、講師の朝原さんがさらっと話すのがこのイベントの醍醐味。私がここに書き残せていない話題もまだいくつかある。一般人はここまででお腹いっぱいになるが、これが能を読み始める前段階である。

能の「蝉丸」 は、皇子なのに盲目であるために捨てられる蝉丸、皇女なのに逆さまに生い立つ髪をもち狂人であるために捨てられる逆髪の2人が、逢坂山という辺地でたまたま?出会うという物語になっている。朝原さんが天に向かって逆さまに生い立つ髪ってどういうものか現実には想像できないが、少年漫画の世界ではないか?と話されていて、私は HUNTER×HUNTER のゴンみたいな髪型を連想したw

蝉丸は盲目なので盲目の人からの視点の表現と、逆髪は目がみえるので (狂人だけど) 健常者からの視点の表現が対比として表されているのもおもしろい。京都から逢坂山の関を超える 道行 の表現がまったく異なる。お互い捨てられた先の辺地の藁屋で、蝉丸が琵琶を弾いたことに逆髪が気付いて、藁屋を尋ねる (出会う) と物語が進んでいって、お互いに涙を流して再会に感動するものの、逆髪は「じゃあ、またね」って感じにすぐ?帰ろうとするのに対して、蝉丸は「もう行っちゃうんですか?!」的な名残惜しくて、ただそれだけのやり取りの能となっている。この能はただ姉弟が出会って別れるだけの、なんの事件も起こらないし、なんの因果もない。これは仏教でいう 会者定離 (えしゃじょうり) を表しているという。出会った者は必ず別れることになるという普遍的な摂理。関西人からみると、オチがないやんとツッコミたくなるところが、哲学的ではまるところなのかもしれない。

11月に 第二十二回「芦屋能・狂言鑑賞の会」 で能の「蝉丸」が演じられるようなので見に行こうと思う。

だんご転がし

昨日から実家に帰ってた。23時に寝て5時に起きた。親が3時ぐらいから起きているから4時ぐらいから布団の中で起きてた気がする。親がだんご転がしで登る山の場所を確認しておきたいというから7時から山登りしてきた。

35日 (だんご転がし)

住職が来る前にだんご転がしを済ませておく。親戚に9時半に近所のお寺に集まってもらってだんご (おにぎり) を持って山登りをする。私は今日2回目。

言うても低い山なので往復20分ぐらいの山登り。登ったところから1人3個、崖に向かって後ろ向きにおにぎりを谷へ放り投げる。三十五日目の山参り というタイトルで日本昔ばなしでも放送されていたらしい。ググれば youtube でみつかるけど、著作権的によいのかどうかわからなかったのでここでは紹介しない。

11時から住職に来てもらってお経をあげていただく。お経後の住職の法話でだんご転がしの風習について話しがあった。そこで日本昔ばなしでも取り上げられたというのを教えてもらった。日本では淡路島にしか残っていない風習だという。その理由を聞いてみたら住職は次の3つをあげていた。

  • 島であること
  • 島民の大半が 真言宗 であること
  • お米が取れる地域であること

仏教の宗派が異なれば葬式の風習も異なる。たまたま島なので外部の影響を受けなかったのではないかという。昔は兵庫の北部や徳島県でもだんご転がしの風習はあったものの、徐々に廃れていったのは他の宗派の影響があるのではないかと話されていた。だんご転がしと言いながら実際はおにぎりを転がすのもややこしい歴史的経緯になっている。昔はお米は貴重であったため、おにぎりの代わりに団子を放っていた時代があって、その後またおにぎりに戻ってきたのではないかと考えられる。現代ならおにぎり転がしというのが正しい。お餅を祀るという習慣も関西では普通だが、関東では行われないという。それもお米が取れる地域の影響があるのではないかと話されていた。歴史の勉強になっておもしろかった。

本髙砂屋の金つば

本髙砂屋 という老舗の和菓子屋さんがある。洋菓子も売っているようだけど。35日に来てくれた親戚に配るためにお土産に買って帰っていた。これまでもお店があるのは知っていたけど、購入する機会がなくて初めてお店に入って買ってみた。詰め合わせは自由に好きなものを組み合わせてくれるという。

現在の「角きんつば」は、神戸元町の紅花堂(現在の本高砂屋)の創業者である杉田太吉により明治時代に考案されたものである。

wikipedia: きんつば

wikipedia によると、当初は刀の「つば」のような丸い形状で、その色から銀つばと呼ばれていたという。大阪で発明されたものが江戸に伝わったときに銀よりも金の方が景気がよいという理由で名前が金つばになったらしい。またいまの四角い金つばは本高砂屋さんがオリジナルで始めたことらしい。なるほど。歴史つきの神戸のお土産として素晴らしい。甘さ控え目で上品な風味になっている。あんこの甘いのが好きな人とそうじゃない人で好みは分かれるかも?私は甘さ控え目の方が好みかな。普通においしいと思う。

暑い日が続く

0時に寝て6時に起きた。今日は業務時間の大半が打ち合わせだった。

正史 諸葛亮孔明

「第十章 蜀の再建と出師表」を読んだ。

孔明の話し相手になっている 蔣琬 (しょうえん) のプロフィール情報がある。孔明の死後、後継者として内政を取り仕切ったらしい。孔明の後を継ぐ人物は相対比較されることから低い評価になりがちだが、蔣琬はそれでも評価が低くないことから時代が異なればもっと高い評価を得た政治家だったのかもしれない。むしろ孔明が北伐を5回もできた背景は留守中の内政を蔣琬始め、出師表で取り上げられた人物たちがうまく運営していたといった話しも出てくる。軍事は国庫を大いに逼迫し、蜀は魏や呉と比べて国力が劣る国家であったことから内政の負担も大きかったと思われる。

出師表 (すいしのひょう) という言葉を知らなかった。出師表とは臣下が出陣するときに君主に奉る文章のことを指す。孔明が君主の劉禅に奉った文章がとても有名らしい。2つあるので前出師表と後出師表と区別する場合もある。後出師表は孔明が書いたものではないという説もあるらしい。一般に出師表と言えば前出師表のことを指す。この出師表のどういったところがその時代の他の文章と異なるのか、また優れているのかが説明されている。孔明の人格者としての振る舞いや忠義が表れていると言える。時代が大きく違うせいか、出師表の内容を読んで私はどうとは感じなかったものの、これは私が提唱するよい開発文化の1つ「書く」ということの重要性ではないかとも思えてきた。当時、孔明と直接話せる人はせいぜい数十人から百数十人程度であろうから、出師表のような文章で多くの兵士や国民に影響を与えた事例の1つと言えるのかもしれない。

孔明の史実を読み始めた

0時に寝て7時に起きた。

正史 諸葛亮孔明

パリピ孔明 がおもしろかったので孔明の記事などを読んだりしていた。

私、姓は諸葛、名は亮、字を孔明と申します。

作品中のこの挨拶が印象に残っている。キャッチフレーズのようなものが挨拶というのも珍しい?そんなこんなもふくめて孔明の本も読んでみることにした。

「第十一章 第一次北伐」を読んだ。

孔明が軍事で手腕を振るうようになるのは劉備の死後になる。北伐は第一次から第五次まである。そのうちの第一次北伐の失敗は 泣いて馬謖を斬る の故事で有名である。wikipedia の説明では正史と演義でこの故事に関する記述は異なっていることが書かれている。本書では、馬謖が副将の王平の諫言に従わず、山頂に布陣したことそのものは悪い策ではなかったと擁護されている。山頂から地の利をとって一刻も早く要衝を通過したい敵の張郃の軍にとって厄介な配置と考えることもできる。馬謖の失敗は実戦経験が乏しかったことで水源の確保を怠っていたことだという。かたや敵将の張郃は歴戦の名将であることから水源の確保ができていないことを看破して馬謖が布陣する近くの川や水源を確保してしまった。水源を確保することなど軍事に限らず当たり前の話しであり、戦術書に「水源を断て」などと記述しているものはないという。馬謖軍の布陣をみただけでそのことを見抜いた張郃の応用戦術を褒めている。さらに戦争に敗れただけであればまだよかったが、馬謖は敗北の責任を逃れるために逃亡したらしい。その承認欲求とプライドのために自分が負けた事実を受け入れられなかった。本書では、孔明の任命責任も大きいと締め括られている。馬謖が孔明の愛弟子であるから、実績のある諸将よりも私情を優先して実績をつけさせてあげようと抜擢した。その結果、馬謖もより大きな実績を挙げようと行動して失敗してしまった。どういう思いで涙を流したかは本書では書かれていなかった。