前日の夜から法要のために実家へ帰っていた。前日は19時にお仕事を終え、お風呂に入って準備をして21時半には出発した。しばらく日記を書くことをお休みしていたから夜に帰る余裕をもてた。今日は夕方には神戸へ戻ってきて、夜はオフィス行ってお仕事のコードを書いていた。

三回忌

亡くなって1年後に行う法要を 一周忌 と呼び、2年後に行う法要を三回忌と呼ぶ。初めての人は勘違いしやすい。私も半年前まで勘違いしていた。

10時から住職に来ていただいてお経をあげていただく。住職が来られたらまずお茶を出す。お教を読み始めたら、回し焼香を参加者が順番にやっていく。15分ほど住職がお教を読んだ後に、参加者も一緒に般若心経を読む。これも15分ぐらいかな。だいたい20-30分程度でお経をあげるのは終わる。その後の住職の法話が始まる。このタイミングで新しいお茶とお茶菓子を用意しつつ、一緒にお布施とお膳料も添えて渡す。

今日の住職の法話は亡くなった人との関係性において自分を知る機会になるという発見について話された。住職の父親はうちの父親が亡くなった翌日に亡くなられた。当時、葬儀の打ち合わせのためにお寺へ伺った際に住職自身も葬儀の準備でバタバタしていると話されていた。そのときに住職の父親は厳しい方だったと伺ったことを覚えている。うちの父親は逆にほとんど子どもには怒ることはなかった。住職は自身の父親が亡くなって最近になってから、自分は父親に褒められたかったのだと、そのことにふと気付いたと話されていた。父親が亡くなってからの1年目は日々の生活に追われ、2年目になってからそのことをゆっくり考えられるようになったのだという。お釈迦様も自分を知るのは難しいといった説法をしているそうな。他人との関係性からふと自分を知るきっかけが訪れるという気付きについて話された。住職にとっては父親との関係性において2年目というタイミングがそうだったのだという。

3日前にお手伝い先の忘年会に出席した。5人で話していて、私以外は家庭をもっていて子どもがいて、そういった家族の話しをしている中、私は独身だから家族の話題にはついていけないし提供することもできない。もしかしたら周りに気を遣わせてしまっているかもしれないと、この卓に私がいて申し訳ないといった気持ちにもなった。懇親会や忘年会のような親睦を深めるための一般的な社交イベントに、プライベートに何も共通の話題がない私のような状況は向かないのだろうと思えた。とくに是非の話しではない。城崎温泉の開発合宿の参加者は独身者の方が多かったのでそのことに気付いていなかった。住職の法話を聞いていてそのときの自身の空虚さや違和感に気付いたことを思い出していた。

法話を終え、今回は卒塔婆が用意されていたのでお墓へもっていって供える。線香とライターを持っていってお墓で線香を3本たてる。お墓参りを終えたらそこで住職は帰られる。その後に参加者との法要後の食事へ行く。今回は身内だけだったので近所の回転寿司で簡単な食事で済ませた。12時過ぎには法要を終えた。

粗大ごみの処分

午後から実家の掃除をして粗大ゴミを整理していた。親戚からベッドをもらってきたようで、それを置くためのスペースを空けるために不要な家具を粗大ゴミとして捨てることにした。戸棚、ローテーブル、過去に使っていた古いベッドの残骸、扇風機、給湯ポットなどで軽トラックの荷台はいっぱいになった。いまベッドは2つあるのでこの離れに2人泊まれる。半年前に取り組んでいた実家の離れのコワーキングスペース化も一段落していて設備面では5人程度が作業するスペース分の机と椅子はある。あとはコンテンツを用意していく必要がある。思いつくキーワードを列挙していくと次になる。

  • 農業体験
  • 近所の温泉
  • バドミントン

設備面で wifi のインターネット回線がないという最大の懸念が残っている。回線を引くと5千円/月はかかるので毎月のように誰か来るなら引いてもいいが、現状だと経費的にもったいないから躊躇している。もう少し寝かせて先送りする。

古本の処分

粗大ゴミの整理をしていて あかつき教育図書 出版の「昭和日本史」という図鑑のような本が全巻 (16巻) あった。故祖父が通販で買ったものらしい。離れに置いておいても読む人はいないし場所も取るので処分することに決めた。保存状態がよかったし、図鑑のようなものを捨てるのはもったいないと思い、古本屋さんへ持っていけば必要とする然るべきところで活用されたら嬉しいなと実家から神戸まで運んできた。淡路島よりも神戸の方が古本屋さんがたくさんあるから引き取ってもらえるだろうと考えた。花隈駅近くの 古書ノーボ さんに電話して帰りの車でそのまま運び込んだ。査定してもらって買取価格は全巻で500円だった。店主曰く「こういったセットものは価値そのものはあるのだが、全巻セットを家に置こうという人が少ないために買取価格は安くなってしまう。」と話されていた。価値はあるが需要はないという話し。まさに私が処分しようと思った動機そのものだったので納得感は高かった。