人を助ける人の特性
今日の運動は腕立て,スクワット,縄跳び(両足跳,駆け足跳),散歩,ジョギング,ハンドグリップ,ダンベルをした。統計を 運動の記録 にまとめる。縄跳びの前後に 右股関節の改善体操 をした。
みなとのもりの運動⌗
前回の所感 。お仕事のテスト作業にいっぱいいっぱいなのと、週間の天候もよくなくて外へ出掛けにくいのもあり、今週はまったく運動できていないように感じていた。ふりかえると、月曜日は公園へ行っていたし、水曜日もバドミントン できているし、今日も公園へ行けたので週の半分は運動できていてそれほど悪くない気もする。いつの間にか、毎日運動して当たり前のような、習慣化のチカラでそんな感覚になっている。
ハンドグリップをして右手の握力がないことに気付いた。バドミントンで右手の握力がなくなるんやと気付いた。あと7月に入ってからコンクリートの上で縄跳びしている。少し前に公園の芝生を養生したので葉の丈がふさふさになって、縄跳びすると葉に引っ掛かるので飛びにくくなってしまった。だから平坦なコンクリートの上で跳ぶしかない。ひざを痛める懸念があるから、コンクリートよりはもう少しやわらない地面がほしい。
『千と千尋の神隠し』と民俗学⌗
たまたま facebook でみかけた投稿がおもしろかったのでメモしておく。いつか非公開になるかもしれないから引用。
『千と千尋の神隠し』について、大学で研究をした者です。
なお、この作品にはかなりの量の民俗学が隠されているのですが、他所で回答いたしましたので、こちらではテーマに関する私見を、参考になればと書かせていただきます。
「千と千尋」というテーマには、まさにアイデンティティについてのテーマが散りばめられていると考えています。
アイデンティティとは、自己同一性という訳されますが、そもそも自己同一性とは何でしょう。
私は、男である、教師である、父である、娘がいる、国籍は日本である、、、などが思い浮かぶ人が多いのですが、それは、自分が自分であると確認できる「要素」です。
でも、要素はあくまで要素なので、その人そのものではありません。
自己同一性とは、「私はこうしたい/こうだ」という「意志がブレない状態」のことを言います。
まず、千尋が迷い込んだのは、環境を否定すれば消えてしまうし、自分の意志がないと子豚にされてしまう世界です。
千尋に対するハクの忠告にも、「嫌だとか、帰りたいとか言わせるように仕向けてくるけど、働きたいとだけ言うんだ。辛くても、耐えて機会を待つんだよ。」とありますね。
これは現実世界でも同じことが言えます、環境や他人のせいにしても、何も変わらないし、あまりいい事が起こりません。笑
また、人は目先の欲望や、他人のせいにすることで、簡単に自分自身を失います。
例えば、千尋の両親は、欲望にまかせて行動することで、自分自身を失って豚になりますね。
湯屋に勤めるカエル男や、ナメクジ女も、金に目がくらみ自分を失う。
ハクも魔法使いになりたいがために、名前を奪われ、自分を見失います。
湯婆婆もお金に目がくらんで、本当の自分を失ってるのかもしれません。
ちなみに、カオナシに関しては、もはや自分が何だか分かってもいません。笑
カオナシは自分を失った人を食べて、他人の言葉で喋ります。千尋のためにと言いながら、自分の言葉で喋らないんです、すべて他人まかせ。
だから顔がないんでしょうね。
そして、人は忘れる生き物です
映画では、名前というキーワードで、これを暗示してますね。
名前を奪われて、肩書きだけ与えられて、欲望だけを追いかければ、誰でもなくなってしまいます。アイデンティティを忘れてしまったカエル男やナメクジ女の顔が一緒なのも、暗喩かもしれません。
一方、夢を持っているリンは、顔立ちもハッキリしていて、千尋を助けてくれます。
そうなんです、自分の夢や強い意志を持つ人って、「人を助ける」んです。
これをちゃんと描いているアニメ映画って、そうそう無いので『千と千尋の神隠し』は本当に素晴らしいと思います。笑
釜爺も自分のことは忘れているかもしれませんが、仕事への意志があります。ハクも、銭婆も強い意志があるから、千尋を助けるんですね。
人は、人を助け助けられることによって、少しずつ思い出します。私はこうしたい、私はこうだ、というアイデンティティを。
千尋がやたら頭を打つのも、思い出に関する暗喩でしょう。笑
そうして、自分のことを思い出した瞬間のハクの涙は、観る度にもらい泣きします。笑
本当に自分がしたいことや自分の意志に気づいたり、思い出した瞬間、涙が出るものです。
最後に、真っ直ぐに現実世界へと帰る千尋の姿も、凛々しいですね。
自分という過去は大切ですが、振り向かないものです。彼女にも前途有望な未来が待っていることでしょう。
そしてきっと、あなたにも。
とくに「自分の夢や強い意志を持つ人って、「人を助ける」んです。」という一文が響いた。私の経験則でも間違ってはいない気がする。私自身も、自分が迷っているときや余裕がないときに他人を助ける余裕はなかった。いまはたまにお世話役のようなこともちょいちょいやるのは、自分の生きる意味や目標が明確になってきて、それで少し余裕がでてきたからかもしれない。